高度成長期においては、需要追随かつ標準形で迅速な社会基盤形成を行ってきた我が国においても、国民の基本的ニーズがほぼ満たされ価値観が多様化する一方、人口減少、高齢化、インフラの更新への対応が迫られてきている。このような中でまちづくり、みちづくりを行っていくには、今までに築き上げてきたインフラを、地域の実情やニーズに沿った形で継続的にカスタマイズしていくことが重要であり、日頃からの地域住民との対話や熟議は極めて重要な意義を持つこととなるのではないかと考えている。
 
と、いう訳で、最近、熟議についていろいろ勉強(研究の域にまだ達していない)している。欧米、特にドイツ、アメリカ辺りでは住民の熟議のためのいろいろな試みがなされている。ワークショップ等を使ったファシリテーションを駆使しているように見受けられるが、これを日本で、しかもインフラにそっくりそのまま活用しようとすると、若干しっくりこないような気がしている。

実はここ数年、本を読んで気になったところを、パソコンで打ち込んでクラウドサービスの個人ストレージに放り込んでいるのだが、森栗先生のブログhttp://morikuri.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-2296.htmlを読んで、ストレージから「宮本常一」で検索すると、最近のもので2件引っかかった(ということは孫引きになるのですが)。

「来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治学の諸問題」 國分 功一郎 幻冬舎新書 2013年9月 P254 780円 
「また日本の村落共同体における寄合は全員一致になるまで時間をかけ、多数決を避けるという方式を採用していた。用事がある人はその場を離れて用事をすませて再び戻ってくるという(宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫)。つまり、いわゆる「前近代的社会」が宗教的権威や伝統的権威に頼る政治体制だというのは、実際には近代的な偏見にすぎない可能性が非常に高い。」
(P245)

「かかわり方のまなび方 ワークショップとファシリテーションの現場から」 西村 佳哲 ちくま文庫 2014年10月 P372 800円 
「日本にもワークショップ的な営みを照らす過去の光がいくつもある。
 民俗学者の宮本常一が拾い集めた戦後まだ間のない頃の村々の「寄り合い」の場には、理詰めで合意をまとめるのではなく、全員が腹で納得するまで時間をかけて練り上げてゆくような、かかわり合いの型があった。
 また、江戸時代後期に農村復興政策を指導した二宮尊徳は農村を復興する一助として、村の人々が車座になり本音で語り合う場を設けて回った。これは「芋こじ会」と呼ばれた。
 こうした話し合いの進め方には、理性を重視する西洋的な価値観の影響を受ける前の、日本の風土に根ざした場の持ち方が感じられる。ことを頭で考えて情報処理するのではなく、腹におさめたり腑に落としてゆくプロセスとしてこれを見ると、ワークショップを理知的な問題解決の手法として捉えている人には、「合意」や「判断」といった人の営みを別の角度から照らす機会になるかもしれない。」
(P233)

森栗先生の課そうとしている宿題で言えば、これは「引き写し」でしかないし、この2つはどちらも同じところの引用のようだけれど、熟議を考えている日本人において宮本常一に着目している人が結構いるのではないかと思えている。

ちなみに、「民主主義対民主主義」(アレンド・レイプハルト 勁草書房 2014年6月 P310 3800円)は、民主主義を導入している36ヵ国について分析し、多数決型民主主義よりもコンセンサス型民主主義の方が優れている(国民の声の反映、アカウンタビリティ、少数者への配慮等?)としているが、コンセンサスを重視する傾向が非西洋諸国に見られるとしてエマーソンの著書を引用している(これも孫引きになってしまった)。

「古典的な著作である『帝国から国民へ』でR.エマーソン(Emaerson 1960,284)は、「一定期間の議論を経た後でなら、多数派は少数派の反対意見を却下する権利をもつという前提は、非西洋諸国の人びとの基盤となっている概念を害するものである」と論じた。アジアの人々の伝統とアフリカの人々の伝統のあいだに重要な差異があることは認めているものの、「彼らは元来、概して最終的な合意形成をねらいとした広範かつ慎重な熟議を好む傾向がある。合意の余地を漸進的に見出すことが重要な特徴であり、それは多数派によって問題を迅速な解決に導く能力ではない」としている。」(P265)